ayabe: 2008年11月アーカイブ

■綾部市の四方市長に関する記事が掲載されている現代農業増刊『集落支援ハンドブック』(2008年11月)を見ていて、中央大学の白水智氏のインタビュー「いま山村の歴史と生活文化から何を学ぶか」(158頁)に注目しました。白水氏はNHKブックス『知られざる日本』(2005年)の著者です。

■原風景という表現はしばしば目にします。稲作が日本の原風景、とか。ただ人は平地の水田だけで生きてきたわけではありません。山でも生きてきました。

■「かつての山は、今では考えられないほど多くの人口を養っていたらしい」(『知られざる日本』17頁)。ではどのようにしてそれが可能だったか。自給自足か。

■「山村の生活」イコール「自給自足」というイメージを持ちがちですが、どうもそうではない。

「むしろ山の生産の多くは商品生産だった」「日本の前近代でも自給自足は当たり前ではなかった」「山で生産するお椀や杓子のような木工品でも、材木でも炭でも、自分で使う分だけつくるなら数日でできてしまうわけで、そのほかの日は何をしているかというと商品生産をしていた」(『集落支援ハンドブック』159頁)。

「自給自足で村が成り立ち、外部との交流なしに生きてきた、隠れ里のような山村はまずなかったといってよい。......どのような特産品をもち、どのような生業の組み合わせをもち、そしてどのような交流のしかたをするかはさまざまであるが、交流そのものがどの山村でも見られたことは間違いないといえる」(『知られざる日本』178頁)

■田村善次郎氏はこう書いています。「二〇年も前のことになるが、仲間とヒマラヤの山地を歩いたことがあった。山を登り、尾根を歩き、谷に下り、また山を上りという毎日を繰り返してタライの山地からグレートヒマラヤの山中まで入っていったのだが、その時、どこまで行っても行き止まりのないことに驚いた。岩山の踏み跡も定かではない道を行き、雪の峠で心細くなっても、その峠を下ると村があり、人が住んでいることに安心もし、また感動もした。今も鮮やかに思い出すことができる。その想いを帰って宮本先生に話した時、先生はひとこと「秘境がないんじゃ!」とおっしゃられた。どういう意味でいわれたのか今もって良くわからないのだが、かつての日本の山中も、ヒマラヤ山地ほど規模は大きくなくとも、行き止まりのない、秘境のない山地ではなかったろうか。」(宮本常一編著『山の道』八坂書房の田村「解説」)

■この「秘境がないんじゃ!」もおそらく上記の「隠れ里のような山村はまずなかったといってよい」と同じ趣旨なのでしょう。

■そしてこの議論が当てはまるのは山地だけではない。綾部の近くの美山町は山地ばかりでなく水田もありますが、江戸時代の人々は水田で自給していたわけではないようです。水田面積がもともと多くはなく、高率の年貢、そして重労働ゆえ多くの米をむしろ消費することもあり、米の生産は必要量に対して不足していた。むしろ何らかの交換で生きていたようです。

「自家不足分の米を買い、高率の年貢を支払うだけの売り上げがあった。米は原則として不足分は買ってでも食べていたわけである」(『美山町誌』下巻227頁)「われわれの先人の多くは、それぞれ何らかの余業稼ぎ(米作り以外の仕事)で年貢の手当をして、それぞれの暮らしを立てていたのだ」(同244頁)

■フランスの歴史家フェルナン・ブローデルは『フェリーペ二世時代の地中海と地中海世界』で、海に着目した歴史を書きました。この海に相当するものとして、交易の場としての山を見ることができないか。そんなことを考えています。すると重畳する丹波の山並がそのまま海の波のようにも思えてくるのです。

■時代による変動はあるでしょうが、生命や生活を維持する基本の部分でも案外、交換や交流の役割が大きい。里山をとりまく問題も、交換や交流の変化であり、今後の課題はそれをどう再構築していくかということになります。もちろん米や木材などの産物を交換することはできます。ただそれらは物としては似てきますから、付加価値が難しい。現代において重要なのはそれらにコンテンツを載せることだという気がします。本当に生産を行なっているのは自然ですから、交換に値する価値とは何かを考えていくのは大切な課題という気がします。

(あさくら)

 

※「私は農村とかかわりはじめた時から、農村が成り立っていたのは、昔の農家さんが農業以外にも生業としての仕事を持っていたからこそではないか、なぜ農政は専業農家の育成だけを目標にしているのか疑問に思っていた。」
中村貴子、書評(『京の田舎暮らし』)、『農業と経済』2009年7月号114頁

「チャレンジング」(VOL.353 2008.11.17)

 

「今年は、子(ね)年だから動き出したら!」

そんな声を10月の終わりに聞きました。

団塊世代くらいの男性から
20代青年へのアドバイスです。

ぼくもそう思っているので
うれしくなりました。

新しい12年の始まりの年が、2008年の今年です。

金融も企業も大変な時期だから
動かずじっとしていなさい

という人もあるかもしれませんが

ぼくはあえて始動すべきだと思っています。

ソフォクレスはこんなことばを残しています。

さいきん、本のタイトルに「なになに力」とつくケースが非常に多いと感じませんか。

やはりいったん売れるとフォーマットになっていくのでしょうね。

他に挙げるとすれば、「なになに学」「なになに論」などでしょうか。

人が「学」「力」「論」という表現を使うのは構わない。

自分自身も、それらの表現を使わずにいることは難しい。

ただし、極力それらの使用を最小化しようかなというのが今の考えです。

何が気になっているからか。

「学」「論」については、書斎的で実践を伴わないような語感を与える余地があるからかもしれないですね。

もちろん、あくまで可能性です。

「地元学はすぐれて実践的な体系じゃないか」。

そのとおりですよね。名前だけで判断することはできない。

地元学は実際にはむしろ、KJ法と同様、法(メソッド)だと思うのです。

「力」はどうか。

社会の側の問題を、個人に還元してしまう面があるのではないか。

本田由紀氏は、ハイパー・メリトクラシー化について問題提起しています。

「意欲やネットワーク力など定義があいまいで、個人の人格にまで関わるような能力が、評価の対象となりはじめた」

「求人広告にも、「生きる力」「多様性」「能動性」「ネットワーク力」の文字が踊るようになり、その人の全人格が評価される社会が現出した。」

( ※ 本田氏自身の執筆でなく、http://www.videonews.com/on-demand/351360/001225.php による要約による)

どこが問題か。

「そこで重視される能力の多くは定義があいまいで、数値化するのが難しく、判断する側の判断基準にも個人差があり、不公平感が出やすい。その結果、評価される側が「なにをどう努力していいのかわからない」状況を招き、若者の無気力や諦め、社会に出ることへの不安を助長する」

「その能力の多くは、多分に生得的なもので、教育や努力を通じていかに身につけるかが解明されていないため、それが格差を固定する要因ともなってる」

( ※ 同上)

この議論にも同意できるのです。「なになに力」はレトリックとしてはともかく、人を評価する尺度としては定性的すぎ、定性的すぎるものを数値化しようとすると無理が生じるので、その典型が企業における成果主義だったりするのではないか。学校でいえば協調性とか積極性ですか。

もちろん社会が流動化して、答えのないところに問題解決をしていくような場面が多いのは事実。

「学」「力」「論」という言葉自体よりも、それを使う文脈ですかね。

田舎暮らしを選ぶということも、実は文脈を選んでいるのです。田舎という場所に暮らすだけなら、もともと多くの人が住んでいます。そうではなく自分で選択した生き方をするということ。それを選んでいるのです。

どんな能力を身につけようとするかしないかは本人が選択すればよいので、他人からたとえば「あなたは人間力がない」と評価されても困る。定義がないのですから。

「学」「力」「論」を使いたい人もいますし、あまり使いたくない人もいます。

とりあえず、使う使わないの狭間で悩んでいる人、でいましょうかね。

(あさくら)

石川県津幡町に河合谷小学校がありました。残念ながら2008年3月に閉校となりました。今は鍵がかけられているそうですが、河合谷小学校には物語があります。

河合谷村で初等教育を整備するには老朽化した校舎を建て替える必要があった。内閣総理大臣の年俸が12,000円、小学校本科正教員の月俸が40円から 180円の当時、校舎の建設費は45,000円弱と見積もられた。それだけの予算は河合谷村にはなく、そのまま老朽化した校舎を使用していくのにも限界があった。小学校に通学する児童たちのために、いかにして建設費を捻出するかの話し合いが1926年(大正15年)に村役場で行われ、河合谷村自治改良委員会によって「全村民で酒を飲んだつもりで毎日最低5銭以上を貯金する」という、「つもり貯金」を実施し全村民が禁酒を行うという提案が行われる。この禁酒提案に至るまで、農業の改良、勤倹貯蓄など様々な提案はあったが、いずれもこれまで著しい効果がでなかった経験と、村内における酒の消費量が毎年80石を下回らず金額にして約9,000円(当時の額面)という数字により、禁酒を行えば5年で4万5,000円を捻出可能であると村民に説明すれば納得するであろうというもの。(中略)1926年4月から行われた全村での禁酒により、村にあった8軒の酒屋は自主廃業した。これら自主廃業した酒屋は後に村から表彰される。目的を共有し達成させるために全村民が禁酒を行うという異例の出来事は全国で「禁酒の村」や「教育の村」として話題になり、日本国内だけでなく海外メディアも取材に訪れた。また、北國新聞によって取り上げられてから、広く情報は知れ渡り、「帝國唯一の禁酒小学校」とまで称されるに至る。教育の村としての精神は現代まで受け継がれ、現代でも教育費を町民で出し合ったり、禁酒の規約第四条で遵守すべき事であった、禁酒標札を今なお掲げ続ける家も残る。(Wikipedia)

その河合谷小学校のご出身で中央大学土木工学科の谷下教授と先週お会いいたしました。先生はこの夏、都市システム研究室の生徒さんと河合谷の方々と一緒に集落を歩き、地域資源マップとしてまとめられました。

この演習は集落の今後の展開可能性を探るもので、谷下教授は、河合谷は、小学校は閉校となっても、教育を大事にする地域として今後もありつづけてほしいと願っております。とおっしゃられています。

また、農山村の問題として「誇りの喪失()」についても言及されていましたが、谷下先生からは地元への誇りを持ち続けておられることが、伝わってきました。(マエダ)


:世界8月号 小田切徳美「農山村再生の課題」より
農山村では、地域社会の空洞化が進行している。なかでも、中山間地域では、典型的に「人・土地・ムラの三つの空洞化」を見ることができる。(中略)こうした変動も、実は実態の表層に過ぎない。その深層にはより本質的な事態が進んでいる。それは、地域住民がそこに住み続ける意味や誇りを喪失しつつある「誇りの空洞化」である。

追記

谷下教授の報告書は「楽しい谷下家」に掲載されています。

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