2010年5月アーカイブ
瓢箪から駒を狙う。
「瓢箪から駒」というのは、狙っていないことが起きることですから、瓢箪から駒を狙うというのは形容矛盾にも思えます。
しかし瓢箪から駒ということはあるなあ、と思いました。
MBC(南日本放送)が制作したテレビ番組のDVD「やねだん~人口300人、ボーナスが出る集落~」を見たのです。
http://www.mbc.co.jp/tv/yanedan/
鹿屋市柳谷(やねだん)地区は豊重哲郎さんをリーダーとして地域再生にいどみます。
「柳谷集落がめざしたのは「行政に頼らない地域再生」。集落総参加で労力や経験を提供しあい、土着菌を使った土作りやオリジナル焼酎づくりなど、独自の商品開発で自主財源を増やしたほか、住民の工夫で福祉や教育も自ら充実させていった。そして自主財源はみるみる増え、すべての世帯にボーナスが配られるほどになる。その画期的な取り組みから、柳谷集落の愛称「やねだん」は、次第に全国に知られるように・・・。」
(上記MBCのWEBより)
これはもちろん画期的なことですが一番うえで瓢箪から駒と書いたことについて、自主財源が増えたこと自体は目的に含まれていたはずなので、注目したいのはむしろアーティストを呼んだことですね。
空家を「迎賓館」に改造し、全国から「アーチスト」を公募する。
そして実際、全国から画家や写真家が集まってくる。
なぜ「アーチスト」たちを招いたか。
番組のなかで語られているのは、文化が大切ということです。
しかしDVDをみてみるとわかりますが、「アーチスト」たちが果たしている役割は単に文化水準を高めるとか教養をつけるといったことではない。
地域再生に不可欠な「シンボル作り」「アーカイヴ記録」「広報係」といった本質的な機能を果たしているのです。
画家が、村の施設や特産品のために、太陽をかたどったシンボルマークをつくる。
写真家が、村人たちの一番いい笑顔を撮影して記録していく。
シンボルマークや写真は複製可能ですから、焼酎や土着菌とあいまって、やねだんの表象が村の外へどんどん広まっていく。
このうえにビデオジャーナリストがいたら最高ですが、その役割はMBCの「やねだん~人口300人、ボーナスが出る集落~」制作スタッフが果たしてくれました。
このようにして、「アーチスト」たちは創造・記録・広報という機能を果たしていく。それがDVDを見ていると如実にわかりました。
このように文化という当初の目的を超えて、実質的な「機能」を果たしていくことを瓢箪から駒と書いてきたわけですが、実は最初からそれを狙っていたのかも。
だとしたらすみませんでした、となります。釈迦の掌といったところでしょうか。
「やねだん」では村内放送にも力を入れているでしょう。情報の持つ力を大切にしているのだなあということがわかります。
徳島県上勝町で起きたことも同じような好循環の事例かと思います。
葉っぱを特産品にする。
すると高齢者の知識が活かされ、活躍の場ができる。
葉の受注FAXのために通信網が整備され、地域のコミュニケーションの可能性も高める。
お金に余裕ができる。
高齢者が元気なので医療費や介護費がかからなくなる。
そしてますますお金に余裕ができる。
若者も戻ってくる。
細部で違いがあるかもしれませんが、好循環の連鎖ということは確かかと思います。
当事者にとっても予想以上だった波及効果もありうることでしょうが、そうした波及効果の発生を含めて、狙っていく。
瓢箪と馬とどちらが大きいですか。
どう考えても馬のほうが瓢箪より大きいでしょう。
でも小さなもののなかに無限に大きな可能性が詰まっているいう意味では、十分にありうること。
ここでの瓢箪から駒の意味は、波及効果は大きいなあということです。想定外のことが起きるというより、雪だるま式に因果関係がふくらむということですね。
やはり瓢箪を放置しない、瓢箪を振ってみることだなあと。そんな結論でした。
(あさくら)
里山ねっと・あやべ 設立10周年記念シンポジウムのゲストはこの「やねだん」地区の豊重哲郎さんです
http://www.satoyama.gr.jp/topix/2010/05/-102010620.html
里山ねっとのそば塾で常連の大工さんから鳥の巣箱をプレゼントしていただきました。春先に松の木に設置してから、音沙汰ありませんでしたが、スズメやツバメなんかの鳴き声がにぎやかになってきた近頃、小鳥が巣箱の近くで歌っていました。
巣箱は里山ねっとのトイレの近くにあるので、最近はうれしいもんだからトイレ行くたびに巣箱を見ています。でもあんまりじろじろ見てると、これからの出産に悪影響を与えないかと自問し、遠くから見ています。ビデオも遠くから望遠でとっているので、手ぶれがひどい。1分30秒くらいから著しく手が疲れて手ぶれが激しくなる。里山ねっとによくボランティア活動に来ていただいている植田さんに聞いたところシジュウカラとの事。
1970年代に、イギリスで人家に配達された牛乳ビンの蓋が、勝手に開けられるという騒ぎが起こった。原因を調べると、シジュウカラの一種が嘴で紙製の蓋を破っていることが発覚した。この地方では、それまでも同じような牛乳配達が行われていたが、そのような被害はなかった。しかも、この時の被害が、一羽の鳥によるものではなかったことから、恐らくある一羽がその方法を発見し、他の個体がそれを見てまねたものと考えられる。つまり模倣によって、新しい行動が伝搬したものと考えられる。その後に牛乳ビンが金属の蓋に変わって、それ以降は同様な被害は消えたと言う。(文化(動物)-wikipedia)
そういえば子供のころに紙の牛乳キャップを集めていましたが、検索してみますと現在も収集されている方がいらっしゃるようです(参考)。まだ紙キャップの牛乳が配達されているところがあったら、イギリスのシジュウカラに教えてやりたい気分です。(マエダ)
村でイベントを実現するには色々な情報交換や打ち合わせが必要です。
ただ関係者がいつでも思い通りに一堂に会して打合せを重ねるということは難しい。
村の皆さんと、個別にでも情報交換をしてまとめていかねばなりません。
地元のかたと会う方法のひとつは、主催者が地元の皆さんと「何時にどこで」と約束をとってお会いすることです。
もうひとつは、あたかも散歩しているかのように村をまわることです。
もちろん何時にどこにいけば誰々さんがいるはずだから......と緻密に因果関係を整理し、それに沿って行動したほうが細かい意味では確実です。
しかしとりあえず村をまわろうという感じで行動してみても、案外会えます。
これは個別の因果関係というより、会えるかもしれない潜在的確率を高めているのです。
何もしなければ確率はゼロですので。
一見あてどないかのように村をまわってみることで、
「忘れていたことを思い出した」
「明確に認識していなかったことを明確に認識した」
「会って相談せねばと思っていたひとが道端で仕事をしていた」
「意外な状況変化に気づいた」
などのことが起きます。
世界の因果律は自分の認識している因果関係より大きい。
したがって、因果関係を予測して行動することは必要ですが、自分の感知している因果関係より大きな因果律に実を委ねてみるようなことも必要なわけです。
「いそがばまわれ」の農村における意味は以上のようなことです。と勝手に定義しておきましょう。
まっすぐ最短距離で通勤することも必要ですが、あてどないかのように蛇行しながら通勤したりしてみると、道端で話しがまとまったりする。
もちろんこれで充分ということは常にありません。
やりとりの充分にできていないケースは申しわけありません。
私たちはいつも色々なことに頭を占領されています。でも空に伸びるアンテナのように、土にのびる根のように、色々なことにきづくようになりたいとは考えているのです。ご指導よろしくお願いします。(あさくら)
下は、本文とは直接関係ありませんが、農家のこせがれネットワークさんのこせがれ応援ソングです。
