廃墟に惹かれるとしたらそれはなぜか(Weekly Message 2010.4.13)

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NHKテレビの「クローズアップ現代」で、「廃墟」を特集していました。

軍艦島を典型例とする「廃墟」に人々が惹かれているそうです。

廃墟めぐりをして映像を記録し、WEBサイトにアーカイヴしていく若者たちのグループ。

廃墟めぐりをするなかで知り合って結婚するという人もいました。

長いですが番組のアブストラクトをそのまま引用してしまいます。
http://cgi4.nhk.or.jp/gendai/kiroku/detail.cgi?content_id=2874

《打ち捨てられた炭鉱跡、巨大な製鉄所、役目を終えた水力発電所など、いわゆる「廃虚」が今、新たな観光地として、若者を中心にブームとなっている。中でも、去年4月に一般公開された長崎市にある端島(はしま)・通称「軍艦島」は、1年間に7万人が訪れ、15億円の経済効果が上がっている。しかし一方、歴史がさほど古くないものは文化財としての評価が難しく、保存は容易ではない。朽ち果て安全性に問題を抱えるものも多い。欧米では、「近い歴史を学ぶことは未来を生きるヒントを得ることだ」と考えられており、「廃虚」を公害など負の遺産も含めて残し、教育や地域の活性化に利用している。番組では、今、脚光をあびる「廃虚」が語りかけるメッセージと、その利用の課題を探る。》

日本では公害など都合のよくないことは「水に流す」「お茶を濁す」という傾向が強くて、公害の象徴を解体してしまって記憶を残さない傾向も強いです。

公害や資源の枯渇のことを考えると、単に工場萌えとも言っていられないかもしれません。

産業革命以降の資源消費や人口増大は人類史のなかでも決定的に突出した目立つ現象で、現在も人はとどまるところを知らない産業化のただなかにいて、出口を知らないわけです。

産業革命以降の経済は石炭や石油、金属など枯渇性の資源に裏打ちされていて、永続可能な経済とは言いがたい。

その意味で産業遺産は永続不可能な社会と関係あるものなので、「猿の惑星」において自由の女神を見て衝撃を受けるのと一緒のような要素があるのかもしれません。

すると、特段、典型的な公害とは無関係のようなものであっても、産業遺産は永続不可能な社会に生きる我々自身に対して、普段隠蔽している都合のよくないことをつきつけるような面を持っているのかもしれない。

「千と千尋の神隠し」でも或る場面でものすごいごみだらけのどぶ川が出てきてドキッとしたことがありました。

ともかく「水に流す」のではなく記録として残す。外交文書にしても何にしても記録を保存するということ自体根付いていない国では、上記の「近い歴史を学ぶことは未来を生きるヒントを得ること」というのは銘記したいことです。

綾部里山交流大学の講師では飯笹佐代子さん(2007年講師)が産業遺産とその活用事例について話してくださいました。

産業遺産のほか、近代化遺産という言い方もあるのですが、何となく綺麗なので、やはり廃墟というのが心象風景にはマッチします。

産業考古学というのもあります。

近代以降の産業遺産に関する考古学(アルケオロジー)といったところでしょうか。

考古学の対象は何ですかといわれて通常おもい浮かべるのは、石器だったり古墳だったりするわけですが、ここでは工場だったり鉄道線路だったり倉庫だったり、産業革命ないしそれ以降の遺構が考古学の対象です。

今も産業化された社会ですから、産業化を過去のこととして考古学の対象としている場合ですかというような見方もありうるわけですが、産業遺産というのは現在でもあり過去でもあるような不思議な存在です。

考古学が案外アクティブな学であったりするようなのと同じ意味で、産業考古学もアクティブであると。

ここで大きく出ると、いま人はなぜ廃墟に惹かれているのか。

滅びゆくものの美学、わびさびみたいなことなのか。

「クローズアップ現代」でいっていたのは、そこに歴史が秘められているということがひとつ。

でも歴史が秘められているだけなら何にでも歴史は秘められています。仏像とか。

「クローズアップ現代」では、高度成長時代に育った団塊の世代と、安定成長の時代に育ちデフレの時代を生きる若者とでは感受性が違うのではないかということがコメントのなかで示唆されていました。

たしかに、縮み社会に生きる者が廃墟のなかに今の自分や将来の自分と相通じるもの、アナロジーを見出して共感しているというのはひとつの説明であるかもしれません。

ここではさらにもうひとつのことをいいたい。人気のある映画やアニメの類で、廃墟と化した世界、荒涼とした風景を舞台としたものが多いように思われることを参照してみましょう。

そこでは弱い少年が別人のように振舞ったりするわけです。

そこでは荒涼とした世界が逆説的に、人を自由にするような舞台装置として機能しているのかもしれない。

そのようなことからすると、まだこのような説明は直観的なものにとどまりますが、もしかすると人は廃墟に自由、ないし自由に通じるかもしれない何か、を見て取っているのではないか。

私の仮説は、現代社会は高度にシステム化されすぎていて、さらにそれが「縮み社会」化することによって、人々の精神を圧迫し続けている。部品や歯車として失敗なく機能し続けることが要求されているわけです。

それで潜在的には誰もが産業革命以降の経済システム化された社会に音[ね]を上げていて、みんな一度「なにもかも、おじゃん」にしたいと感じているのではないか、というようなことです。

産業化のなかで、橋や鉱山やビルは、現役でシステムに組み込まれていた時代もありました。

ところが現在は廃墟というのは、退役、お役御免になって、システムから免除されています。

そして野ざらしで雨に打たれている。役割のないのが役割、みたいな。

そこに降る雨は、いわば社会に降る雨でなくて宇宙に降る雨なわけです。

みんな社会に音を上げている。今は特にそうです。でもなかなかシステムの外には出られない。

人は社会の外、システムの外に憧れる存在である。

で、雨に打たれている橋や煙突を見ると、部品となることから解放された自由を見て取ると。

ただそれを観光名所にしはじめると、またシステムに組み込まれてしまうかも。

たとえば田舎暮らしや農業にシステムからの解放を見出しても、田舎暮らしや農業をするというのもそれはそれでシステムに組み込まれていく面があります。

そこがむずかしいところです。(あさくら)


(参考)
「「軍艦島は私たちの社会の未来の象徴だ。資源を使い果たしたら、私たちも地球を捨てることになるのだろうか」。島をつぶさに見たフランスの建築学校生、ポリンヌ・ル・バスさん(22)(フランス・レンヌ市)はこう感じた。」「フランス国営テレビは昨年、島を取材。番組をまとめたDVDでは、炭鉱閉山で「最先端の」軍艦島が衰退していった歴史を紹介したうえで、「日本の近代化を夢見てできた島。今までの世代は石炭、石油を使い果たしてきた。これからは先を見て変えていかなければならない。自分たちにとって本当に大事なものを見ていこう」といったコメントが添えられている。」(読売新聞2010年4月23日記事「廃虚・軍艦島に5万9000人上陸...解禁1年」)

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このページは、ayabeが2010年4月13日 21:33に書いたブログ記事です。

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