存在を指し示すこと

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これが私の窓。(Das ist mein Fenster.)

というフレーズで、リルケの詩 Die Liebende
(恋している女性、Woman in Loveといったところでしょうか)は始まります。
http://www.rilke.de/gedichte/die_liebende_neue_gedichte.htm

人は言葉によって世界を分節(区分け)して認識する、

というようなことがよくいわれるのですが、

この詩は何となくそういう事態と関係しているように

勝手に思うわけです。

朝の薄明の中、寝覚めの自我は茫漠と広がっていて、

どこまでが自分でどこからが自分でないのか、

どこからが昼でどこからが夜なのか分明でなく、

自分と宇宙が一体のように思われる。

たとえ目覚めたとしても、恋や愛のなかにあるので、

なおかつ夢を見ているようである。

そのようななかで、ああこれが窓だ

というフレーズがあって、窓という事物が分節して認識されたわけです。

ただ窓は当然部屋の外の樹々や鳥や、風や空、昼や夜、星や宇宙、

といったものとつながっているので、

区別されて認識された存在としての窓が同時に、

私と世界とを区切りのない融通無碍なものとして風通しし、

つなぎつづけているわけです。

いきなり、これが窓ですといわれましても、

はいそうですかということになりますが、

場合によっては、存在を指し示すこと自体が無限の含意をもつわけです。

萩原朔太郎の詩(蛙の死)の一節に

「月が出た、
丘の上に人が立つてゐる。
帽子の下に顔がある。」

というのがありますが、

「月が出た」というのも
「丘の上に人が立つてゐる」というのも
「帽子の下に顔がある」というのも

個別にいわれてみたら、はいそうですか帽子の下に顔があるんですか

ということになりますが、

「月が出た、
丘の上に人が立つてゐる。
帽子の下に顔がある。」

といわれると生々しい世界の存在そのものを突きつけられたようでドキッとします。

帽子の上に顔があったらこわいですが、帽子の下に顔があるという

あたりまえのことをいわれてもなんだかこわい。

思うにこれは私という存在そのものの不安定さやこわさや無理さ加減と関係していて、

人間は肉と骨でできていますが無理して自我というものを持っているわけです。

森羅万象というように世界にはあれもありこれもあり何でもありますが、

つきつめて考えていけば私とそれ以外です。

それ以外を指し示すことで私も指し示されてしまう。

それでこわいのかなと思います。

なぜ宇宙のことを理解できるんだろうという趣旨のことをアインシュタインは言ったとか。

アインシュタインだから理解できたのかもしれないですが、

宇宙物理は数学的に記述できても、存在自体の不思議な感覚はつきまといます。

これが窓だ。

でなく

これが私の窓だ。

であるのは、たぶん、

私が窓なんでしょう。世界への窓なんでしょう。

窓は壁という物に開いた空間ですから、老子に「有之以為利、無之以為用」とあるように

有であることよりは無であることに意味がある。

私の存在とは指し示すことであり、指し示すことが私の存在なんでしょう。

現代人は戸籍や履歴書や仕事や役割やでやたら分節されているわけですが、

いま窓を開けると、田園は一面の緑で、

育ちゆく稲の苗の上を風が渡り、太陽が朝と夕の風光を作ります。

そんななかで宇宙内存在としての自分、窓としての自分を一瞬だけ感じたあと、

また普通の日常に戻るわけです。

(あさくら)

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このページは、ayabeが2009年7月14日 23:35に書いたブログ記事です。

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