ないものねだりはほんとにないものですか
ないものねだりより、あるものさがしをしよう。
「無限の経済成長」や「東京のような大都会」にモデルを求めて右往左往したり、国からの補助金をあてにして箱物を作ったりするより、足もとにある地域資源を発掘し活用しようという意味においてはまったくそのとおりなので、たしかにそうだ、と納得します。
ところで「ある」「ない」はかなり抽象化された基本的な言葉なので、色々な受け取り方が可能です。
地元学の本旨とは別の議論になりますが、ないものねだりは本当にないものねだりかということを考え続けています。
戦争のない世界や、犯罪のない世界は、たとえ困難に感じられようとも実現すべきで、それを希求することをないものねだりということはできないでしょう。
何が本当に「ある」のか、何が本当に「ない」のか、の見極めは簡単ではないはずで、「ないもの」といわれていることの多くは、仮に困難であったとしても、実現可能性があり、かつ実現すべきものです。
テレビで林業関係者の「今はどう努力しても林業が成り立たない構造になっている」という発言を放送しているのを見ました。
農林業の窮状は政策的・構造的なものなので、窮状を打破するには政策や社会構造の変化が必要です。
政策や社会構造の変化を求めることは、ないものねだりではなく、むしろ政策や社会構造の変化によってのみ、解決に近づくことができます。
世の中には個人レベルの心がけを超えた社会的なものがあるからです。
現在の経済・雇用状況も、農山村から人をひきはがし、工業製品輸出を重視し、投機に流れるお金を増大させてきた構造の行き着くはてなので、ミクロ/パーソナルなレベルの問題ではありません。
古野隆雄さんも綾部里山交流大学の講義で、農家による失職者の受入れ可能性について「国の根本的な政策の誤りというか、そこのところをきちっとしないで農業で受け入れてくれと言っても、それは問題じゃないかと、何が根本原因かってことですよね。そこらへんをやっぱりきちっとしたうえでしなければ、実際、農業は対応できないんじゃないでしょうかね。」とのことでした。
ごみ問題や温暖化問題も個人レベルの足もとからの努力(民生部門)とともに経済構造の変化(産業部門)の両方が必要なので、足もとの努力はもちろん必要ですが、足もとだけでは全面的な解決にはなりません。
湯船に水がいつまでたってもたまらないのは、底の栓が抜けているからでは。
そのばあい、できる努力をしようということで湯船に水をそそぎ続けても、水はいっこうに溜りません。栓が抜けているからです。まず栓をしましょうよということです。
人の言葉においてはポジティブなものとネガティブなものを使い分けることで用語体系がなりたっていて、「ねだり」というのはネガティブな言葉の仲間に属します。
でも、「あるもので、ないものをつくろう」といっている場合の「ないもの」というのは、ポジティブな語感を伴って使われているのではないですか。
この場合の「ないもの」というのは、オリジナルで新しい価値のあるものという感じです。
いずれにしても、個人も社会も現実の姿から可能な姿へと向かって変化していってほしいので、ないものをむしろ希求すべきであり、ないものを希求することこそが発展の原動力となるのではなかろうかということがあります。
ないものねだりより、あるものさがしをしよう。
でもないものを希求するのも大切だ。
両方とも一理あると思えるのは、「ある」「ない」に色々な意味づけが可能で、ミクロな問題、マクロな問題など議論のターゲットや文脈も人によって違うからかもしれません。
「ないものねだりより、あるものさがしを」というのは地方自身の実践原理として意味があるので、都会が地方に対して言ってほしくはないです。
つまり「誰がいうかによる」なので、文脈によって意味が違うのではなかろうかということです。
水俣で地元学が広く実践されたことは象徴的なので、当事者の取り組みであることに意味があるのだと思います。
もし「あるもの」「ないもの」で議論が錯綜してきたら、各々がどういう趣旨や文脈でその言葉を用いているかを言い換えていったら、案外簡単に合意可能な話であったりすることが判明するかもしれません。(あさくら)
