2009年5月アーカイブ

こんな資料やあんな道具を持参したら

万一の場合に役立つのではないか

というような思いがふとよぎり、

でも時間がないとか確率が低いとかの理由で

その予感を振り払って、切り捨ててしまうと、

たいていの場合、けっきょく必要になったりします。

あとで考えると、なぜそんなことを思いついていたのか

わからないくらい微妙な精神の作用ですが、

結果的にみるととても正しかったというようなことです。

新聞に掲載されている事件の類を見ていると、

関係者は何となく危なさに気づいていながら

その虫の知らせを心のなかで黙殺して

ものごとを進めてしまったのではないかと

思えるような場合があります。

だから、「何となく危ないと思ったら、

根拠が解明できなくてもとにかく

安全側に(予防的に・回避的に)行動しようね」

ということになります。

このことと鏡のような関係にあるのが、

「根拠のない自信」ということです。

判断過程を論理的に記述しにくいにしても結論に確信のある場合、

とにかく先回りに先回りを重ねて、先手を打って行動するほうが

丁度よいので、あとから状況のほうが追いついてきます。

結果的には先手を打っておいて丁度よいくらいなので、

もし通常の行動をしていたら全然間に合わなかったな

ということになります。

古野隆雄さんは綾部里山交流大学の講義で、

「合鴨をやって失敗に失敗して何で続けて来れたか。

「根拠のない自信」ですね。

根拠のある自信は誰でももてる。

でも最後は根拠のないところで信じる以外ない。

根拠のない自信がやっぱりいちばん重要じゃないかな。」(2009年2月)

とのことでした。

別の例でいえば、「奇跡のリンゴ」ですか。

では本当に根拠はないのか。

実際には根拠はあるのだと思います。

根拠のない自信という状態では、

実証作業はこれからの仕事だけれども、

「これが必要だ」「こうあるべきだ」「こうなるはずだ」という

規範や仮説、補強材料が心の中にあるはずです。

だから確信はある。いわば「確信という虫」が

心の中にいて、実証せよと呼びかけている状態です。

いいかえますと、根拠のないとはいっても

根拠を明確に説明するための因果関係が見通せないだけです。

物事は予測的に見るのと回顧的に見るのとで

見え方が異なります。

実証しおわったあとでは、こうすればこうなる、という因果関係が

明瞭に見通せますし説明も可能です。

最初に見えている因果関係は断片的なので、「根拠のない自信」

ということになりますが、「根拠のない自信」に従って行動することが、

断片的だった因果関係をつなぎあわせていき、全体として説明可能にします。

事実と規範(「である」と「べき」)は違います。

そのはざまに行動がある。

不確実性は存在するけれども、そうした不確実性に対して

どう振る舞うべきか自体は明瞭で確定的なのです。

不確実な世の中ですが、徹底的に予防原則的に行動せねばならないし、

徹底的に規範的に行動せねばならないんだろうと、虫の声です。(あさくら)

地域の力

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昨年2月に設立された綾部市内の自主防災ネットワークの総会を伝えるあやべ市民新聞5月13日の記事に対して、5月20日の紙面で、読者から「行政の予算措置はどうなっているのか」と問いがあり、「行政が組織に金銭的な裏付けしないと災害時に協力を得られない」「自主防災組織の根底にあるのは、見返りではなく共助の精神」という議論があった。

防災のみならず、防犯や福祉や教育など、あらゆる社会的な機能は、市民による自主的な組織が大きな役割を担いつつあります。これには2つの背景が思い浮かびます。一つは市町村合併や過疎化により行政の合理化が進められていること。もう一つは、高齢化や技術の進歩、問題の多様化など社会の変化に伴い、必要とされる社会的な機能が増大したこと。

前者について、綾部市で見ても、昭和の大合併以前には同じ面積の中に役場は10以上ありました。この平成の大合併では、未だ支所として多くの役場が残っていますが、今後は続々と廃役場や廃校が各地で生まれることでしょう。「地域マネージャー」の必要性が求められている(*1)のは、失われた身近な存在としての役場の機能を新たに再生することだと思います。これはNPOや自治会などが担うこともありますし、行政が縦割りを脱し横断的な地域担当を設けることもあるでしょう。綾部市が奥上林地区に設置したいきいきセンターも地域マネージャといえるかもしれません。

後者について、教育でいえば綾部も例外でなく、毎年多くの不登校が顕在化しています。代替の教育機関が民間にもありますが、数は十分ではありません。義務教育が教育を受けさせる親の義務だとしても、身近に代替機関がなければ、すべてを親のせいにすることはできないと思います。綾部市立病院は表彰を受けるなど、順調な経営と聞いていますが、他の市区町村を見れば、公営病院の経営難はよく伝えられます。これもまた医療の進歩や社会要請の高まりなどの変化に因ると言えるかもしれません。

「きれい事だ」とおっしゃる読者の声も分かります。防災以外でもやはり、ボランティアの手で介護や福祉に役立ったという報道も同じ論理できれい事だと私は感じています。もちろん限られた紙面の中で難しいことやきたないことよりきれいなことのほうが聞きたいニュースです。ボランティアが無償とは限りませんが、ボランティアや自主活動によって社会貢献をする綺麗なことが否定される訳はありませんし、伝えられた防災研修会を開くことも必要なことです。「きれい事だ」という論理は予算はどのくらいあり、それが持続可能かを問うのだと思う。

綾部市は毎年300名以上の人口が減り高齢化も進んでいます。その傾向は中山間地になりますとさらに顕著です。そういった地域の自主活動と、密集地の自主活動とで一様な機能がもてない以上将来への不安はぬぐえません。「私のしごと館」が閉鎖されても、国民が健康で安全に、教育を受け文化的に暮らすための基本的な社会的機能を止めるわけにはいきません。「小さな政府」に関する議論にもありますが、国・地方・民間の役割は今後変化していく中で、財源は国から地方さらに民間に流れて行くことが予想されます。行政が合理化され、求められる社会機能が民間にゆだねられる部分があるなら、当然かもしれません。その時に問われるのは地域の力だと思います。

地域の力」の著者大江正章氏高齢化が進み、人口が減り、「限界集落」が生まれることが問題なのではない。都市であれ農山村であれ、社会的な関係性から切り離されたとき人は孤立し、そこで生きていくことの価値や意義が失われたとき、人と地域は活力を失う(世界2008年8月号)と言う。紙面は綾部市の「市民性」で結ばれた。私たちが住んでいる綾部に対して誇りを持つこと。少なくともこれだけは、地域の力を強くするために必要なことだと思います。(マエダ)


綾部里山交流大学6月講座
*1「地域マネージャー」の必要性が求められている
  • 中山間地域研究センター昔の小学校区程度の地域を新たな生活圏(郷:さと)と仮定し、この「郷」に対して、外部のNPOや地域マネージャー、学生レンジャー等が新しい地域の「結び目」=「結節機能」となって、集落の人たちと一緒に、地域資源の掘り起こし、地域の活性化、地域外との交流事業に取り組みました。
  • かみえちご山里ファン倶楽部広域合併、道州制へと行政密度が希薄になる未来では、各地域が従来の町村区分よりさらにコンパクトな「クニ」として、自前の道と自前のまかないを目指す動きにならざるを得ない。
  • 日南町 校区まちづくり協議会では地域の諸問題の解決に地域住民が主体的に取組み、行政も地域担当職員を設けた。校区が活動計画を作成し、予算要求を行うことも可能。
  • 大江正章氏「国と自治体が出資し、運営は過疎地域の実情に精通したNPOが共同で担う中山間地持続的発展協力事業団を設立して、新たな公共=コモンズの担い手を養成し、各地に配置する。」(世界2008年8月号)

「閉校から10年」

 

我が家はいつも周囲と2週間ほど遅れて
田植えをおこないます。

田んぼで代かきの作業をしていたら、
ふとあることを思い出しました。

とっても重要なことです。

ぼくは約10年つとめた会社を
1999年1月に退職し、

同月末、Uターンで綾部に帰ってきました。

 

ないものねだりより、あるものさがしをしよう。

「無限の経済成長」や「東京のような大都会」にモデルを求めて右往左往したり、国からの補助金をあてにして箱物を作ったりするより、足もとにある地域資源を発掘し活用しようという意味においてはまったくそのとおりなので、たしかにそうだ、と納得します。

ところで「ある」「ない」はかなり抽象化された基本的な言葉なので、色々な受け取り方が可能です。

地元学の本旨とは別の議論になりますが、ないものねだりは本当にないものねだりかということを考え続けています。

戦争のない世界や、犯罪のない世界は、たとえ困難に感じられようとも実現すべきで、それを希求することをないものねだりということはできないでしょう。

何が本当に「ある」のか、何が本当に「ない」のか、の見極めは簡単ではないはずで、「ないもの」といわれていることの多くは、仮に困難であったとしても、実現可能性があり、かつ実現すべきものです。

テレビで林業関係者の「今はどう努力しても林業が成り立たない構造になっている」という発言を放送しているのを見ました。

農林業の窮状は政策的・構造的なものなので、窮状を打破するには政策や社会構造の変化が必要です。

政策や社会構造の変化を求めることは、ないものねだりではなく、むしろ政策や社会構造の変化によってのみ、解決に近づくことができます。

世の中には個人レベルの心がけを超えた社会的なものがあるからです。

現在の経済・雇用状況も、農山村から人をひきはがし、工業製品輸出を重視し、投機に流れるお金を増大させてきた構造の行き着くはてなので、ミクロ/パーソナルなレベルの問題ではありません。

古野隆雄さんも綾部里山交流大学の講義で、農家による失職者の受入れ可能性について「国の根本的な政策の誤りというか、そこのところをきちっとしないで農業で受け入れてくれと言っても、それは問題じゃないかと、何が根本原因かってことですよね。そこらへんをやっぱりきちっとしたうえでしなければ、実際、農業は対応できないんじゃないでしょうかね。」とのことでした。

ごみ問題や温暖化問題も個人レベルの足もとからの努力(民生部門)とともに経済構造の変化(産業部門)の両方が必要なので、足もとの努力はもちろん必要ですが、足もとだけでは全面的な解決にはなりません。

湯船に水がいつまでたってもたまらないのは、底の栓が抜けているからでは。

そのばあい、できる努力をしようということで湯船に水をそそぎ続けても、水はいっこうに溜りません。栓が抜けているからです。まず栓をしましょうよということです。

人の言葉においてはポジティブなものとネガティブなものを使い分けることで用語体系がなりたっていて、「ねだり」というのはネガティブな言葉の仲間に属します。

でも、「あるもので、ないものをつくろう」といっている場合の「ないもの」というのは、ポジティブな語感を伴って使われているのではないですか。

この場合の「ないもの」というのは、オリジナルで新しい価値のあるものという感じです。

いずれにしても、個人も社会も現実の姿から可能な姿へと向かって変化していってほしいので、ないものをむしろ希求すべきであり、ないものを希求することこそが発展の原動力となるのではなかろうかということがあります。

ないものねだりより、あるものさがしをしよう。

でもないものを希求するのも大切だ。

両方とも一理あると思えるのは、「ある」「ない」に色々な意味づけが可能で、ミクロな問題、マクロな問題など議論のターゲットや文脈も人によって違うからかもしれません。

「ないものねだりより、あるものさがしを」というのは地方自身の実践原理として意味があるので、都会が地方に対して言ってほしくはないです。

つまり「誰がいうかによる」なので、文脈によって意味が違うのではなかろうかということです。

水俣で地元学が広く実践されたことは象徴的なので、当事者の取り組みであることに意味があるのだと思います。

もし「あるもの」「ないもの」で議論が錯綜してきたら、各々がどういう趣旨や文脈でその言葉を用いているかを言い換えていったら、案外簡単に合意可能な話であったりすることが判明するかもしれません。(あさくら)

境界と名前

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里山交流大学情報発信学講座が行われました。参加者の中に福井県敦賀市の愛発(あらち)の方と三重県亀山から鈴鹿で勤務されている方があり、愛発には愛発関、鈴鹿には鈴鹿関という関所のつながりがありました。それぞれ古代の重要な関だったようで岐阜の不破関を加え三関(さんげん、さんかん)と呼ばれるそうです。交流会では奈良の都を守るためではないかと歴史談議になりました。

日本語の語源辞典(西垣幸夫著)で「関東」の項目を見ますと奈良時代から伊勢国鈴鹿関、美濃国不破関、越前国愛発関の三関以東をさした。とあります。日本の中に多くの国が存在した頃は関も多く存在しましたが、現在日本の玄関ではもっぱらインフルエンザのチェックがされています。

先週、駅の命名権が年間30万円で売却とのニュースがありました。

赤字解消対策として駅舎表玄関の駅名看板の命名権の募集をしていた三陸鉄道(山口和彦社長)は27日、宮古駅の駅名を「アイフルホーム宮古駅」と改め、除幕式を行った。(中略) 4駅(久慈、宮古、釜石、盛)の駅舎表玄関の看板の命名権の募集をした。残り3駅の応募はまだない。(2009年4月27日 asahi.com)

数年前から競技場などではおなじみになりましたが、今週は財政破綻の影響で閉鎖されていた夕張市の公衆便所の命名権が売却され再開しました。

初日はセレモニーなどはなかったが、午前9時に再開されると、マイカーでやって来た観光客や地域のお年寄りたちが早速、利用していた。(2009年5月2日 mainichi.jp)

3年ほど前には国の財政改革の提案(自民党財政改革研究会)に国道や橋などの命名権を売却するプランがありました。命名権.com販売情報一覧を見ますと、地方自治体の公共施設や道路などが並んでいます。星の名前(学術名でなく、天文台による認定)や東京都の公園のベンチなどの販売も紹介されています。

平成の市町村合併では、市の名前を平仮名表記にしたり「新」をつけたり、由緒ある町名がなくなるところもあり、命名は各地で苦労したようです。

敦賀にある気比神社の神は、人間と名前を交換したと古事記にあるそうです。名は体を表すといいますが、神の名を得た人は神になりました。神は名を交換したとしても神は神。いずれも気比神社には神としてまつられています(参考)。

人は境界性というものに障害があると、人格に異常をきたします。夏が嫌いという友達がいました。体温と気温が近いので、自分が分からなくなると言いました。とても個性的な友達です。

廃藩置県以降、行政上の境界ははっきりしましたが、関所がなくなり境界はむしろあいまいになったのかもしれません。その代わりに個性や名前を大事にしたいと思います。里山交流大学情報発信学講座では、各自がおさめた写真に名前を付けます。名前を付けることに価値があるからこそです。命名権ビジネスもうなずけます。(マエダ)