2009年3月アーカイブ

「人はパンのみにて生くるにあらず」。

ここは日本ですので、ポストハーベスト入りの外麦パンより、

山水で育ったごはんがいいですよね。

......という話ではなく、

パンのみによってでなく、××によって。

の××に何が入るか。

もちろん、今ますますパン(生存権)が重要であることは折り込み済みですが、

ここでは××に象徴(シンボル)と入れてみます。

人は象徴を操作することによって生きているというわけです。

(1)
人の周囲には社会や世界が広がっていますが、

人は記号や言葉によって社会や世界を認識するので、

直接に社会や世界と関わっているようでいて

象徴を介して関わっているともいえるのです。

服は寒さを防げればよいのですが、就活ルックのように

色々と衣服に気を遣うことになるのは服が防寒上の機能だけでなく

社会との関わり方を象徴するという機能をもつようになっているからでしょう。

羽根がなくても募金はできます。でも赤い羽根があると募金が進んだりします。

つまり上手に象徴を操作することで世界との関わりを改善することができる。

馬路村の村長が綾部で講演された折も、村のイメージそのものを売るようにしたので

イメージと村が違う場合は村を直していったという趣旨のことを

言っておられたように思いました。

象徴は大きな機能を果たしているだけに、象徴に傷がつくと一気に逆効果ということもあります。

食生活にあまり気を遣わない人でも、土産物に化学薬品が入っていたり外国産原料だったりすると

何となく面白くないのはそういうわけです。

土産物を食べるのは飢えを満たすためというより象徴や意味を食べているからです。

世の中はオールオアナッシングでなく折り合いをつけ敷居をひくことによって

成り立っている面もあるので、多くのことは混沌としていますが、

せめてウェイトの高い象徴を重点的に整えてみようということになります。

(2)
一方で、貨幣が自己目的化しないほうがいいように、

象徴操作も自己目的化しないほうがいいです。

むしろ象徴なくして社会が回転したほうがいい面もあります。

アントレプレナーによって何か新しいものが作られると、

アントレプレナーの物語が象徴となりカリスマの源泉となりますが、

遅かれ早かれアントレプレナーが退場して組織化の段階が訪れます。

成功した原因へのこだわりが失敗する原因になる、ような流れは避けたい。

すると組織やシステムへの信頼のほうが獲得目標になります。

シンボルから歯車へ、です。

よくわからないけれど、何となくうまくまわっている、みたいな。

地域おこしのためには多くの場合、マスコットキャラクターを作りますが、

各々のマスコットキャラクター自体はそれぞれに異なっていても

マスコットキャラクターを作ろうとする努力自体はみんながすることなので、

何となく金太郎飴感が漂いがちになるのも事実です。

むしろ「脱マスコット宣言のまち」をめざしたほうが断然、独自性があるかも。

象徴だけに依存しようとすることで象徴操作に失敗する、というような可能性が常にあるわけです。

(3)
「だったら何も象徴を作らなくてもいいんですか」。

実は物事は連動していて、一事が万事ということもあるので、

省エネにしても無添加にしても、せめて象徴的な点については改善しようという努力が、

結果としてトータルな改善に結びつくという効果を期待したいのです。

あるいは、象徴なら象徴だけを独立して操作するのでなく、

システム全体を改善して、その結果として象徴が輝くという因果関係です。

景観というのは、美しい景色のことですか。

景観は地域社会のシステム全体のことで、景観は結果だと思うのはそういうわけです。

人は食べ物だけで生きているわけではないというのは、

何も食べなくても生きていけるというわけではなく、

地域社会が持続性のある理念にもとづいて生き生きとしたシステムとして回転している

ということの結果として毎日のおいしい食事や、美しい景観や、特産品があったりする

ということのように思うので、「システムの裏打ちのない象徴より、システムに裏打ちされた象徴」、

「象徴を改善するためには、象徴だけを改善するより、象徴の前提となるシステムの改善」

というのがとりあえずの結びなのです。(あさくら)

象徴としての薪
背中の薪......昔は勤勉の象徴、今は脱枯渇資源の象徴

主人公

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先週の3連休は、里山ねっとにある「幸喜山荘」が蕎麦食堂になりました。開店が決まったのは、ほんの2週間前のことでした。短い告知期間でしたが、2日半の間に200名以上の方が来られ大盛況でした。

春の里山オープン蕎麦」というタイトルには、安喰さんの「遠くの人も近くの人も、よく訪れる人も初めての人も普段着のままでお気軽に」来てほしいという思いがこもっています。実際に、遠くの人も近くの人も、里山ねっとに良く来る人、初めての人、久しぶりの人、老若男女さまざまな方に来ていただきました。

2週間前に打ち合わせした時に、私は「蕎麦レストラン」とチラシに書いたのですが、却下になり、蕎麦食堂になりました。レストランはrestaurantで、restは休息ですし、「良好な状態にする」、「回復する」といった語源があるそうですが、一方で「堂」というのは、人が集まる場所といった意味もありますので、ぴったりだったと思います。

「春の里山オープン蕎麦」は、安喰さんと宮園さんという綾部へ移住してまだ1年の若い2人の企画で、2人が主人公でした。これまで里山ねっとで様々なイベントがありましたが、要予約の企画がほとんどでした。今回、予約不要だったのは移住者の視点だからできたのかもしれません。夕方に京都市内の方から「いま仕事が終わったけどこれから行く」と電話があり、特急電車に乗ってこられた方もありました。

「主人公」というのは、禅の言葉にあるようです。

瑞巌和尚という方は、毎日自分自身に向かって「主人公」と呼びかけ、また自分で「ハイ」と返事をしていました。「はっきりと目を醒ましているか」「ハイ」「これから先も人に騙されなさんなや」「ハイ、ハイ」といって、毎日ひとり言をいっておられたというのです。
ここでいう主人公とは、家庭の主人のことではありません。もちろん、会社の社長でもない。人間一人ひとりの主体的な人格のことです。
私たちは、本当の自分というものをとかく見失いがちです。とくに今日、私たちをとりまく環境からくる刺戟はたいへんなもので、外のものに目を奪われている間に、自己を喪失しやすくなっています。そこで、いつも主体的な自分というものを、はっきりと自覚していなければなりません。「おい、主人公、目を覚ましているか」とみずからを覚醒しなければならない。
盤珪(ばんけい)禅師はこういわれています。
主(ぬし)と申さば一切に自在なるところの名じゃ。自在とは自ずから在るということではござらんか。
主体的な自己である主とは、すべてのものに束縛されず自由自在でいることをいいます。また、自在ということは、自ずから在るということで、力まず、自然に無心な己れ自身であることです。(臨黄ネット-主人公-無門関より)

「堂に入る」という言葉があります。学問や技芸がすぐれていることで、この食堂も、安喰さんと宮園さんのキャリアと技があってのことですが、安喰さんが仰っているとおり、彼らができることやりたいことを提案されたもので、安喰さんと宮園さんの自由自在の場であったと思います。

願わくば二人に、春だけじゃなく、いろんな季節の企画を開いてほしいですが、オープンうどんでも、オープン茶漬けでも、新たな主人公が新たな企画を提案いただければ嬉しく思います。

以前にも書きましたが、私としても決して「応援」という客体でなく、自分自身にも「おい主人公!」と呼びかけて、一緒になって取り組んでいきたいと思っています。(マエダ)

「因縁無量」


里山ねっと・あやべの
定例ミーティングをしていたら

1本の電話が鳴りました。

 

とあるメディアのディレクターの方からだったのですが、

綾部のことを、
里山ねっと・あやべの取り組みを

4月末、全国に生中継してくださる

といったありがたい内容でした。

 

ディレクターの方は
どこで里山ねっとのことを知られたかというと

情報発信というのを「情報発信」と鉤括弧つきで使いたくないですか。

もちをつくといっても、米をついた結果としてもちができるので、

もちがあってそれをきねでつくのではないです。

情報を発信するといっても、最初から情報があってそれを発信するのか

というと発信しようとする行為があって情報がある感じです。

つまり「情報発信」の前提としてまず情報を創造する過程があるので、

それで「情報発信」と鉤括弧つきで使いたいのです。

理由はもうひとつあって、情報といっても実際には論証であったり発見であったり

提案であったりするわけでしょう。

インフォメーションというよりアイデアという感じではないのかなということです。

ブログだって、歯を磨いて寝たというような日記がブログの本懐ではないはずで、

ジャーナリズムであり調査報道であり、時々刻々の動きを調査検証していくのに

ブログのフォーマットが適していたということがひとつあるだろうと思います。

さらにいえば発信というとベクトルが一方向な感じですが、本当は相互作用であるわけで、

対話や弁証という感じが近いような気がします。

そもそも発信があるからには受信があるのですが、受信にも受信の仕方というものがあるので、

発信と受信のいずれをも包括するものとしてメディア・リテラシーという考え方があるわけでしょう。

スローフードというのはゆっくりごはんをかんでたべるのではなくて、

ファストフードの背後にあるグローバリゼーションに対して、それでいいんですか

という問題提起があるはずですが、メディアについても、

「それでいいんですか」という立脚点をもつことは大切ではないでしょうか。

ハンバーガーがどういう経路で手元に届いているのかを考え直すように、

たとえばテレビや新聞の情報がどのように作られて目の前にあらわれているかについて考え直す。

早い話、テレビCMを洪水のように浴びるのは

ファストフードを浴びるように食べるのと同様のことですよね。

だからこそ自給自足というのは食物の自給自足だけでなく

アイデアの自給自足やアイデアの自律性ということがターゲットになるのだと思います。

この大風呂敷はもっといろいろと広がる風呂敷なので、

「情報発信」はとりあえず私の中では鉤括弧つきなのです。(あさくら)

相伝

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里山ねっとがそば塾や和太鼓でお世話になっている山下さんからかきもちの差し入れをいただきました。写真を撮る前についスタッフで食べつくしてしまいお見せできませんが、豆が入っていて、ほんのり甘く、さくさくと口に溶けていきました。そのかきもちは、お婆さまが亡くなる前に「伝えたいことがある」と作り方を伝授されたそうです。まさに相伝です。

先日、綾部里山交流大学で古野さんのお話を聞きました。古野さんには本当にご多忙の中お越しいただきました。古野さんは、これまで多くの人に教わって来られたから、教えを請われたらなるべく断らないようにされているそうです。

文化や技術の伝播は、よく生物学的な遺伝に照らして考えられることがあります。遺伝子的に利己的な行動も、個体として利他的であったりします。文化や技術の伝播も、利他的な行為ですが、社会や家族の為になるという行動は、自らの為とも言えます。

師匠に教わり弟子に伝えることも、多くに習い多くに伝えることも、人の営みにとって必然なのかもしれません。そう考えると習うことと伝えることが人が生きる目的とも思えます。私は未だ伝えるようなことなどなく、習うしかないですが。。。

先日、塩見直紀さんの著書「半農半Xという生き方」で紹介された方々を訪ねて台湾から30名の方が里山ねっとに来られました。馬祖という人口6000人の離島からの若い方が多かったのですが、大型バスで入れない異国の小道を歩き、綾部の農村に暮らす方々から熱心に習っておられました。

塩見直紀さんは常々、今のうちにお年寄りの話を聞かなければならないとおっしゃいます。核家族化や過疎化によって、伝えることをお持ちでありながら、伝えられないお年寄りがいるとすれば切なくなります。反対に、伝えるものもなく習うこともままならない自戒を抱きつつ。(マエダ)