「学」「力」「論」どう考えますか(VOL.352 2008.11.13)
さいきん、本のタイトルに「なになに力」とつくケースが非常に多いと感じませんか。
やはりいったん売れるとフォーマットになっていくのでしょうね。
他に挙げるとすれば、「なになに学」「なになに論」などでしょうか。
人が「学」「力」「論」という表現を使うのは構わない。
自分自身も、それらの表現を使わずにいることは難しい。
ただし、極力それらの使用を最小化しようかなというのが今の考えです。
何が気になっているからか。
「学」「論」については、書斎的で実践を伴わないような語感を与える余地があるからかもしれないですね。
もちろん、あくまで可能性です。
「地元学はすぐれて実践的な体系じゃないか」。
そのとおりですよね。名前だけで判断することはできない。
地元学は実際にはむしろ、KJ法と同様、法(メソッド)だと思うのです。
「力」はどうか。
社会の側の問題を、個人に還元してしまう面があるのではないか。
本田由紀氏は、ハイパー・メリトクラシー化について問題提起しています。
「意欲やネットワーク力など定義があいまいで、個人の人格にまで関わるような能力が、評価の対象となりはじめた」
「求人広告にも、「生きる力」「多様性」「能動性」「ネットワーク力」の文字が踊るようになり、その人の全人格が評価される社会が現出した。」
( ※ 本田氏自身の執筆でなく、http://www.videonews.com/on-demand/351360/001225.php による要約による)
どこが問題か。
「そこで重視される能力の多くは定義があいまいで、数値化するのが難しく、判断する側の判断基準にも個人差があり、不公平感が出やすい。その結果、評価される側が「なにをどう努力していいのかわからない」状況を招き、若者の無気力や諦め、社会に出ることへの不安を助長する」
「その能力の多くは、多分に生得的なもので、教育や努力を通じていかに身につけるかが解明されていないため、それが格差を固定する要因ともなってる」
( ※ 同上)
この議論にも同意できるのです。「なになに力」はレトリックとしてはともかく、人を評価する尺度としては定性的すぎ、定性的すぎるものを数値化しようとすると無理が生じるので、その典型が企業における成果主義だったりするのではないか。学校でいえば協調性とか積極性ですか。
もちろん社会が流動化して、答えのないところに問題解決をしていくような場面が多いのは事実。
「学」「力」「論」という言葉自体よりも、それを使う文脈ですかね。
田舎暮らしを選ぶということも、実は文脈を選んでいるのです。田舎という場所に暮らすだけなら、もともと多くの人が住んでいます。そうではなく自分で選択した生き方をするということ。それを選んでいるのです。
どんな能力を身につけようとするかしないかは本人が選択すればよいので、他人からたとえば「あなたは人間力がない」と評価されても困る。定義がないのですから。
「学」「力」「論」を使いたい人もいますし、あまり使いたくない人もいます。
とりあえず、使う使わないの狭間で悩んでいる人、でいましょうかね。
(あさくら)
