金融不安と里山経済学(VOL.350 2008.10.28)

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2008年4月の記事で、アイデアというものの性質について考えました。
http://www.satoyama.gr.jp/mt/weekly/2008/04/post-1.html

アイデアや情報は共有できる。これが人間の能力を拡大してきた特質です。

ところで「おかね」の価値というものも、アイデアであり、情報であり、ルールであり、信用であり、共同幻想であり、いずれにしても人間の頭脳のなかの存在ですね。 

おかねとして使われている金属や紙きれは、物体としては金属や紙きれ以上のものではありませんから。 

価値を蓄積する「おかね」というルールを使うことで、変動の多い自然や社会の動きに柔軟に対処することも可能になります。

しかしこの、情報の自由さという性質は、おかねに関しては諸刃の剣だなあと考えざるをえないですね。情報の自己目的化というべき事態がおこります。

もともと本当に生産というべきものは自然の力にもとづくものだけで、資源や材料を加工して製品にすることは生産でなく実は自然が生産したものの消費ですし、おかねという情報の処理は人間社会のなかのできごとです。

ところがその情報処理の部門で取り扱われる情報がふくらんで、ものごとを大きくコントロールする力をもつようになります。

いわゆる「南と北」の問題は典型ですし、それぞれの国の内部でも、資源と力の遍在があります。

「カネすなわち貨幣はなぜこれほどまでに人を堕落させ、腐敗させるのか。貨幣はなぜこれほどまでに権力的に振る舞いうるのか」(河宮信郎・青木秀和『公共政策の倫理学』丸善2002年pp.214)というのは人類の長い課題でしょう。

現物の価値に対応したおかねよりも情報としてのおかねの動きがはげしくなっています。

ゲームに参加することである時点での価値よりも次の時点での価値が高くなると信じられる時点においては、多くの人がそのゲームに参加するのでどんどん価値が肥大化します。しかし前提が崩壊すれば蟻を散らすようにみんな逃げますから、価値が崩壊します。

特に巨大な天変地異が連続した訳でもないのに2008年10月の数週間において巨額の価値が飛んで消えました。
http://www.news.janjan.jp/living/0811/0811040803/1.php

「年金」にしても、人に情報を預けておいたら情報が好きなように操作されてしまいました。

政治や経済はお約束を前提とした世界ですので、お約束が崩壊すれば、多くの人が普通に生きていくことすら困難な状態が出現することも考えられます。

もちろん物々交換にすら数字や情報は必要です。ただ、現在のおかねのあり方は抽象化や手段の目的化が進行しすぎているようです。

もっと人間の生存に密着した交換のあり方をローカルな現場から考えていきたいですね。

そのとき、人間の社会の内部だけ見るのではなく、本質的に価値の源がどこにあるかを考えたいのです。

価値の源は社会の外、自然にある。あるいは社会と自然の間にある。

そんな経済学も必要なのでは。里山経済学、なんてどうかなと。

アメリカの環境経済学者ハーマン・デイリーの三原則として知られている持続可能性の基準は以下のとおりです。

(1)"再生可能な資源"の持続可能な利用の速度は、その供給源の再生速度を超えてはならない。
(2)"再生不可能な資源"の持続可能な利用の速度は、持続可能なペースで利用する再生可能な資源へ転換する速度を越えてはならない。
(3)"汚染物質"の持続可能な排出速度は、環境がそうした汚染物質を循環し、吸収し、無害化できる速度を越えてはならない。
(※メドウズ他『成長の限界 人類の選択』より抜粋)

これにならうと、人間界で流通する貨幣価値の総体は、自然が人間にわけあたえてくれる価値の総体を超えてはならない、というようなことを構想してみたくなります。

おかねに関する議論は非常に難しく、不正確なところもあるでしょうが、あえて思うところを書いてみました。

(あさくら)

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このページは、ayabeが2008年10月28日 22:37に書いたブログ記事です。

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