「与えるということ」・・・VOL.281(2006.10.10)

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「与えるということ」

秋になって、

人間は新米を「収穫」したと喜んでいるけれど、

稲(人間がつけた名前ですが・・・)の側に立つと


大切ないのちの種子を「収奪」されたことになります。

稲は人間を信じて、大きく育ってくれたのですが、

自分のいのち以上に大事なものをもっていかれた
ともいえます。

もしかしたら、

稲はそんなことも承知で
育ってくれたのかもしれない、
いのちを投げ出してくれたのかもしれません。

なぜ?

それは人間にいい仕事をしてほしいから。

考えすぎかな。


いま田んぼでは

稲刈りをした株から「二番穂」が出ています。

刈り取った株から、出る稲穂です。

背丈は小さいけど、立派に穂をつけています。

やはり、稲は種子が大地に落ち、
いのちがまたつながり、仲間が増えていくことも
求めているのですね。

連綿とつながるいのち。

二番穂という執念(怨念ではない)を見ていると
いろいろと感じることがあります。

(文・塩見直紀)

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このページは、ayabeが2006年10月10日 17:21に書いたブログ記事です。

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